河口浅間神社だより(第27-2号) 平成27年

香の倒大祭
 4月25日(土)は河口の神社(延喜式内名神大社浅間神社)の例大祭です。神社の祭事を代表する伝統の祭りを地区の皆さんで盛大に祝いしましょう。
祭例行事
4月23日 地区全戸の奉仕により、神社境内を清める清掃
4月24日 宵祭り 神社内外の飾りつけ、町内に注連縄の飾りつけ、本祭りの準備、おこもり
4月25日 本祭り午前10 時30分頃から無形文化財稚児の舞奉納
              午前11時30 分から式典
              午後1時ころから無形文佑財稚児の舞奉納午後3時まで
              午後3時御神輿発御(巡幸)
                  →産屋ケ崎御旅所→町内巡幸→西川橋御旅所→還御午後7時30分
4月26日 裏祭り 神社内外の飾りつけの片付、町内注連縄飾りつけの片付、直会

祭りの由来
 例大祭は稚児の舞の奉納と、御神輿の御神幸が挙告されます。稚児の努は祭神ヘ報謝の誠を奉げる舞で、御幣の舞などが奉納されます。御神輿の御神幸は、祭神、木花開耶姫命の御子、彦火火出見毒事と、皇后豊玉姫命二柱の神の聞に誕生された孫、ウガヤ草葺不合尊をお見舞いする祭儀です。河口の町内を巡幸する御神輿には、御神霊と産着が納められ、産屋ヶ崎神社で式典が執り行われます。このお祭りは祭神が孫の誕生を見舞うことから、「孫見祭」と言われます。
 4月25日午後3時、神社から産屋ヶ崎の御旅所を目指し、御神輿が巡幸されます。この御列は大胴を先頭に神馬、天狗、鉾、神宮、天狗、御神輿、社名旗、高張、長持、糞銭、稚児、一般のお供と続きます。「メンショウ、メンショウJ の掛け声も賑やかに、天狗は竹を地面に打ちつけ、時折爆竹を鳴らし、御神輿の行く先を清めます。産屋ヶ崎神社で神事を終えた御神輿は西川橋御旅所を目指し、河口地区の結界をまさlこ縦断します。

今年の宮世話のお願い
 神社の祭礼など諸行事の執行にあたり、地区(氏子)の慣例により、宮世話当番があります。今年は第2自治会の第7組と第8組に御苦労いただきます。お住事などがあり、ご多忙とは害じますが、河口の伝統である神社の行事にご協力くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

春の例大祭と「めまきJ
 河口浅間神社の春の例大祭は、祭神、木花開耶姫命が孫のウガヤフキアエズの誕生を見舞う祭儀で、別名「孫見祭」とも言われていますが、これとは別に「めまき祭」とも言われています。
 河口地区は鎌倉往還の主要な宿駅であり、神社を核として発展した御師の里を形成していました。富士山信仰の道者は富士山登拝を前に御師宅に身を寄せ、身を清め、大願成就の祈祷を受けていました。「めまき」はこの時代の御師文化から発生し、現在に伝わる料理であると考えられています。めまきの芯には河口湖で探れるワ力サギなどの小魚をいれ、これを巻くアラメコンブは海藻ですが、往還を流通する物資として海から離れだ河口の地でも入手できだのでしょう。三角形に形を整え、巻終わりを竹で留めだ形は、姫が十二単衣に懐剣を持つ姿とか、富士山の形を模したなどの説があります。
 富士山と富士山信仰、河口浅間神社と御師文化から発生した「めまき」は、春の倒大祭を前に各家庭で準備され、祭の祝いの郷土料理として食されています。

神社創建より11 50 年を迎えます
 河口浅間神社の創建は古く、今年で神社創建1150 年を迎えます。この長きの問、幾度となく修理および修復を経て、神社は維持管理され、現在に受け継つがれてきました。神社創建1150 年の記意事業といたしまして、本殿塗装の修復、大鳥居に掛かる篇額、本殿と拝殿の間の石の閣の上部を覆う仮屋根の政修を検討しています。記念事業の内容については現在横討中ですが、具体的になり次第お知らせいたしますので、ご理解とご協力をお願い申し上げます。

神社創建に闘する記述
 貞観6 (864)年、富士山の西の峰が大噴火をおこし、富士北麓は大きな被害を被りました。
 平安時代の歴史書『三代実録』11巻貞観7年12月9日丙辰の条に、
 「九日丙辰。勅。甲斐国八代郡立浅間明神嗣。列於宮社。即置祝祢宣。臨時致祭J
とあり、甲斐の国司は、富士山噴火の惨事の状況を朝廷に言上、朝廷は勅命(天皇の命令〉により、甲斐の園に浅間明神を祀り、祝1と禰宜を配置し、噴火を鎮めるための祭を執り行つだことが分かります。貞観7年12月9日は噴火の翌年に当たり、溶岩流の被害がなかった河口の地に浅間神社明神を祀る社が建立されました。この時の構造物を示す記事として
 「四面石高一丈八尺許。贋三尺。厚ー尺。立石之円。相去一尺。中有一重高問。以石構営。彩色美麗。」
とあり、石造で彩色が美しく施されていだことが分かります。貞観7年、西暦865 年に創建されだ河口浅間神社は、今年で1150年の年に当たります。
 慶長11年(1606〕の火災で本殿を焼失しますが、その翌年、時の領主、局居土佐守成次によって再建され、現在にその姿を残しています。現在の本殿は、一聞社流造、唐破風の向拝が付きます。同拝の木鼻、手挟には彫刻が施され、妻の笈型、向拝の海老虹梁の手法に極彩色が施された、桃山から江戸時代の神社建築の犠式をよく現しています。

大鳥居の篇額
 大鳥居に掲げられている「三圏第一山」の属額は、銅製で、能筆家とも知られる遍照金剛一晶公弁親王による箪です。篇額の背面には、「奉寄進銅額 秋元喬朝 遍照金剛一晶公弁親王書之 銅工木村政友 作 元禄+年丑三月廿三日」と記されています。神社の参道正面の鳥居に飾る篇額は、神社にとって宝物あり、また、寄進者、筆者、作者の記載があり、神社の歴史を考えるうえでも貴重な史料です。近年表面塗料の劣化により、その文字が見えづらくなっていることから、今回の修復を倹討しています。
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